旧宿場町千住

日光街道の、日本橋から最初の宿場町、千住宿。
今でも北千住周辺は賑わいを見せています。
ところで「千住」の由来、知っていますか?
意外と区民の方も知らないのではないでしょうか?

勝專寺の寺伝の記述によると、1327年(嘉暦2年)に新井図書政次が荒川で千手観音像を拾い、この地を千手と呼んだことに由来するとされる説が有力ですが、他にも諸説あります。
足利義政の愛妾千寿の出生地であったからという説、千葉氏が住んでいたからだという説が伝わっています。

江戸時代頃から日光街道の宿場として発展した千住。
江戸から一つ目の宿場でありることから、江戸四宿のひとつとしても名を馳せました。
南北千住を結ぶ千住大橋の北岸を北組(千住1~5丁目)・中組(掃部宿)の二つに分け、橋南に南組(小塚原町・中村町)を設けこれら3組を合して千住宿と称したのです。
北組・中組・南組が公的な地名となるのは明治になってからことです。

いわゆる「岡場所」のひとつでありまして、当時の船頭たちが歌った「千住節」の一節「千住女郎衆はいかりか綱か 上り下りの舟とめる」というのはこれを指しているのです。
また江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったと伝えられています。